津波被災者が語る 被災とコレカラ

宮城県の牡鹿半島 津波被災者 阿部恵一さんのお話

震源地近くの宮城県石巻市の牡鹿半島にある十八成浜は津波で壊滅的な被害を受けた。
その十八成浜住人の阿部恵一さんが自己の体験を赤裸々に話した講演を以下に紹介しよう。
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日本全国いつどこで地震や津波が発生するのか分かりません。

もしもの時に備えて私の体験談を皆さんにお話します。

リアルに生々しいことも話しますが、本当のことですので、良く聞いて地元に帰ったらそれを家族や友達に伝えてください。

そして、もし地震や津波が発生したら、皆さんや大切な人が助かって欲しいです。

一昨年の平成23年の3月9日、大震災の二日前の14時頃に震度6強の地震が発生しました。

その時の揺れは約30秒でした。

震度6強でかなり大きい地震でした。

私は漁業組合で働いていましたので(現在も)、6メートルの津波が来ると有線放送で避難を呼びかけました。でも実際に来た津波は50センチメートルでした。
(この50センチの津波で二日後の大津波を油断していた人もいる。)

そして、その二日後の3月11日の14時46分にマグニチュード9以上の大地震が発生しました。揺れは約3分間続きました。

私は仕事中でしたので、金庫を金庫室に入れて鍵をかけ、すぐに避難しました。

すぐ有線放送を流しましたが、停電のために皆に声が届きませんでしたので、外に出て避難を呼びかけました。

その時点ではまだ津波が来るとは知りませんでしたが、14時55分頃に石巻市の防災無線で15時15分頃に鮎川(牡鹿半島の先端部)に6メートルの津波が来ると無線がはいりました。

私には当時、保育所に通っていた、ひな・もえ・さくらという娘が三人います。今は小学生になりましたが。
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私は家に帰り、妻に「すぐに保育所に行って子どもを連れて、めぐろに避難しなさい。」と伝えました。めぐろは親戚が営む民宿で隣の小渕浜にあります。

なぜめぐろへの避難を伝えたかと言うとめぐろは高台にあるからです。

ここで皆さん伝えたいことがあります。

「万が一津波が起きた際の家族の共通の避難場所を確認しておいて欲しいいんです。

その確認すべき避難場所は高台なんです。」

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津波から逃げるというと、遠くへ逃げればいいと思いがちですが、津波は平地だったら、何キロも上がってきます。特に堀や川沿いは注意が必要です。

だから近くでもいいので、高い所に避難してください。

私の経験からすると20メートルくらいの高さの場所に逃げれば、ほぼ安全だと思います。

ですが宮城県の気仙沼、南三陸、女川や岩手県の陸前高田では25メートル以上の津波が来ました。

この地震の震源地は牡鹿半島の沖だったのですが、牡鹿半島の津波は15~20メートルで、平均約15メートルの津波でした。

この辺の沖には田代島や網地島などの沢山の島があり、おそらく津波はその島に遮られて、ある程度低かったのかもしれません。

ですが、女川とか南三陸の沖には島がなく、津波をもろに受け、その津波の高さは25メートルくらいでした。

(※女川湾などは山が海に張り出したV字谷であり、湾内で波高を高めた。波高20メートル以上。このタイプの波の移動距離は短い。エネルギー損失が少なく、津波のエネルギーはほとんど位置エネルギーに変わる。位置エネルギーが運動エネルギーに変わり、海水の速度が増して強い引き波になる。)(参照  被災地への誘い 著 掘込 智之 石巻駅近くの観光案内所、タダイマイシノマキで購入可能。200円)

私たちは高台のめぐろに避難しましたが、避難した5分後に大津波が来ました。

私たちが避難したところは山の裏側なので、津波時は最初は何が起きたか分かりませんでした。

「ミリミリミリ!」っと音がして、何かと思って山の裏を見に行ったら、津波が家を流してくるんです。

その辺には大きな家が沢山あったんですが、それがみんな流れているんです。

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悪い夢を見てるような感じでした。

中には流される家の屋根の上に人がいるのを見ました。

けどその人は引き波のときに、屋根から飛び降りて助かりました。

震災で2万人近い人が亡くなって、行方不明者も2000人以上いるんですが、捜索しても見つかっていないんです。

そういう人達はおそらく引き波で沖合いまで流されていると思うんです。膝下辺りまで水が来たら、水圧で皆さん流されますからね。

波が見えてから逃げても遅いんです。だからもう、津波だと思ったらとにかく高いところに逃げることです。

津波は第2波、第3波がますます大きくなると言われています。

私たちは家が流されているを見ましたので、末っ子をおんぶして、長女と次女と手を繋いで、山の道なき道を登って、とにかく逃げました。

そうしてると午後4時から4時半くらいなったころ雪が降り始めました。

ものすごい寒かったんです。

約40人くらいの人が高台の神社に避難していました。

年配の方と子ども達は神社の中に休ませて、私たち男性は外で火を焚いて、ずっと暖を取っていました。

波の音は一晩中、朝まで、ザーッザーっと続いていました。

その間、車のクラクションの音も聞こえてきました。「たすけてくれー」と人の助けを求める声も聞こえました。

ところが助けようにも助けられないんですよ。

懐中電灯もなく停電で真っ暗ですから。
私たちはラジオも何も持っていなかったので、牡鹿半島だけが被害にあったのかと思っていましたが、避難して山の頂上に上ったので、門脇小学校とか石巻の市街地が火事になってるのが見えたんです。
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(門脇小学校)

塩釜市の石油コンビナートも爆発していました、塩釜まではかなり遠いんですが、そこから見えましたね。

そして、上空をヘリコプターが飛んでいるので、これはとんでもないことが起きたんだなと思いました。

次の日の朝、高台に2軒助かった家があったので、そこへ行ってラジオを借り、冷蔵庫から食料全部を分けて頂きました。

40人以上人がいましたから、ポテトチップスを4,5枚を分けて食べたり、チョコレートを小さな欠片にして皆で分けて食べました。

それも1日2日経つと無くなりましたので、山から下りていきました。

すると地区住民の人がいまして、「とにかく人を探さないといけないね。誰が助かって、誰が行方不明か確認しないと。」と話し、その日から浜に人を探しに行きました。

そこには津波が来た際に、ワカメの仕事をしていて長靴を履いたまま、手袋をしたままのおばちゃんたちがそのままの常態で倒れていました。

もちろん、亡くなっているんです。

その遺体を高台へ搬送して、一体ずつ安置して、線香をお供えしました。

それを5日間くらい行いましたけど、その間も余震があって、「皆、高台へ戻れー!」っと余震がある度に高台と浜の行き来を10回も15回も繰り返しました。

2次災害が怖いですからね。

私は映画の「日本沈没」を観ましたけども、私の体験はまさにそれは観ているような光景でした。

実際に、ついこの間まで話していた知り合いのおっちゃんが、知り合いのおばちゃんが、友達が死んでいるんですよ、その津波で。

遺体を発見して最初は誰なのか分かりませんでした。なぜかというと、水を飲んで溺死しているので、体がぶくぶく膨れているんです。

水を吸って人形のようになった遺体を見て、人ってこうなるのかと思いましたね・・・。

私の確認ではそういう遺体が35体ほどありました。

その遺体を鮎川の体育館に仮安置しました。

そういう作業を約5日間しまして、それはなんというか・・・

本当に生き地獄でしたね。

自分は今何をやっているのかすら、わからない状態でした。

その時は何も食べてなかったので、ものすごくお腹が空いていました。

お腹の空腹は我慢できても喉の渇きは我慢できなかったですね。

そこで皆さんにお伝えしたいのが、

人が生きていくには食べ物よりも水が大事ということが分かりました。

ペットボトルの水もお茶も何もなかったので、私たちは雪を食べてました。

あるいはペットボトルに雪を入れて、それを溶かして40人の皆でそれを回し飲みしました。そうして、喉を潤しました。

いやー雪が降ってよかったと思いましたね。
それから、約3ヶ月半の約50人での避難所生活が始まりました。

私は野球部でしょっちゅう合宿をして慣れていたのと、地元の顔なじみの人ばかりだったので避難所生活はあまり大変ではありませんでしたが、夜のいびきで寝れなかったのがきつかったですね。それが毎日ですから。

食事は毎日2日くらい賞味期限のきれたパンとおにぎりでしたね。

でもおいしかったねー。

肉とか魚は食べれませんでした。

お昼は毎日カップラーメンでした。

韓国のカップラーメンを初めて食べましたね。韓国から沢山のカップラーメンの支援物資で届いて、それを毎日食べていました。

震災後7キロやせたんですけど、また元に戻りましたよ。

今は毎日一生懸命ウォーキングしてます。

今はそれだけ、食べ物が食べれているってことですね。

避難所生活では2ヶ月風呂に入れませんでした。皆臭いんですよね。笑

皆臭いから臭いのに慣れてしまいましたよ。

着替えの服がなくて毎日同じ服を着ていましたから、たまに山に行って裸になって川の水で体や服を洗っていました。

最初は仮説のトイレもなかったので山に行って用を足していました。紙がないので葉っぱで拭いていました。

山の川水は冷たくてとても美味しいんです。

ある日、川水で顔を洗ったり、それを美味しい美味しいと飲んでいると、その上流から5,6人の人が降りてきました。

何してたんかと思うと、トイレがないから上流で用を足してきてるんですよね。

汚い話なんですが、私は誰かが上流で用が足した水を、下流で美味しそうに飲んでいたんです。笑

それでも生きていると幸せでしたね。

緊急時は懐中電灯が必要です。

ずっと何ヶ月間も電気のない生活ですから、夜暗くなってからトイレに行くのに懐中電灯が必要なんです。

男性の人は落ち着いておしっこをして欲しいです。

私はおっちょこちょいで左手で懐中電灯を持ったまま、右手でチャックを閉めようとしたとき、チャックであれをカチッとやってしまいましてね。笑

おしっこするときはしっかり懐中電灯を下に置いてからしましょう。

携帯電話が繋がりませんでしたから、石巻の友達に、浜出身の私は津波で流されて死んだと思われてましたね。

一ヶ月くらい経ってから石巻から友達が歩いてきて来ました。

お互い安否確認して、抱き合って泣きましたよ。

本当に震災はすごい体験でした。

2万人近くの方が亡くなって、なんで私が助かった理由は瞬時の判断の違いだと思います。

津波が来るなぁと思ったら、家族や友達が心配ですよね?

浜には「津波てんでんこ」という言葉があります。

てんでとはひとりひとりと言う意味で、「津波てんでんこ」は津波が来たらひとりひとりしっかりちゃんと逃げなさいという意味なんです。

ひとりひとりがちゃんと逃げればいいのです。

そうすれば、皆助かりますから。

今回の震災で子どもを保育所や学校に迎えに行って、その途中で津波で流された人がいます。だけど子どもは先生に誘導されて助かっているんです。

あるいは早く避難したけど、津波が中々来ないから大丈夫だろうと思って、家に薬などを取りに行って、その途中に津波に飲み込まれた方もいます。
(普段使っている薬の名前を覚えておくことが大事。)

そういう人たちが沢山津波で犠牲になっているんです。

20メートル以上の高いところに逃げたら、そこから動かないほうがいいです。

家族や友達は大丈夫だと思って、動かないでください。

津波が落ち着いてから探したらいいのです。

いずれ東海地震や南海トラフ地震が起こると言われてます。

震度5以上の地震が発生したら必ず津波が来ると思ってください。

逃げてください。

普段から、水と懐中電灯とラジオを常備していてください。

もちろん、非常食もあった方がいいですが、少し待てば、支援物資が届きますから。

皆さんに助かって欲しいんです。

絶対に助かって命を守ってください。

それが一番大事ですから。

皆さんは都会に住んでいるんですよね。

田舎では車の数が少なくて車で逃げやすいんですが、だけど都会で車で逃げると渋滞しますからね。

出来ることならば、まずは車で逃げないほうがいいです。車なんて流されても、またいつか新しいの買えばいいんです。

今回の津波の際、車で逃げて渋滞にはまり、車の中で多くの方が亡くなりました。

車で逃げて津波が来て、海水で電気系統がやられて車の窓が開かなくなり、閉じ込められて、亡くなったんです。

もしどうしても車で逃げるなら、窓を全部開けることです。
(水圧や車の損傷で扉が開かないことも理由のひとつ)

私は家に帰って女房に子ども迎えに行かせたら、女房が車で行ったのを見て、自分も車があると気付いて、車庫から車を出して、車ですぐ高台へ逃げました。

田舎で車が少ないのですぐ避難出来ました。後はそこから動きませんでした。

通帳を取りに行ったり、実印取りに行ったりした人がいましたが、それはバカですからね。やめてください。

貯金通帳や実印は後で再発行出来るんですから。

私はとうちゃんの位牌流されましたけど、それも再発行してもらいましたよ。笑

家に帰ったときは家の中に入りませんでした。

家に入ってたら、へそくりとか宝くじが50枚あったんですけどね・・・。

現金は再発行できないから、現金は普段持たないほうがいいですよ。

欲を持ったらだめですよ、これが大事だ、あれはどうしようと思ってはだめ。

車も要らない、お金も要らない。

体一つでいい。

あとは何とかなるから。

まずは自分の命を守るのが大事です。

私の家は海岸の近くにあって、津波第一波で波がボーンっと家にぶつかってそのまま家ごと流されていきました。

長女が4月から小学校へ入学予定だったので、ランドセルとか机とかみんな買ってあって、入学を楽しみにしていたんですけどね。

それも全部流されました。

後で阿部ひなっと娘の名前が書いてあるピンクのランドセルが見つかって、娘は泣いていましたね。

避難所生活者は家を流された人がほとんどでしたが、家族が行方不明だったり、あるいは家族の遺体が浜に上がったったりした方もいました。

正直言って、家族が亡くなった方と何を話して言いか分からないんですよ・・・。

自分や家族が助かっているからって「良かった、良かった、皆助かった。」なんて会話は出来ないんです。

みんな心の中に津波の恐ろしさとか、コレカラどうして行くんだという不安など抱えているいるんです。

皆さん、人間はやっぱりお金を欲しいとか色んな欲望を持ってますけど、そんなの一切捨てて大丈夫ですから。

まずは命が大事です。

物は後で支援物資で得られますから。

私は野球が好きで25年間、中学校の野球部の指導者をしていましたが、津波で教え子を亡くしました。

キャッチボールもまともに出来ない子だったんです・・・子どもと言ってももう35歳でしたが。

彼は消防団に入っていて、津波の際に防波堤の水門を閉めようとしていました。

けど、水門は普段使ってないために中々動きませんでした。

真面目な彼は部落の皆を守らないといけないと思い一所懸命に閉めようとしていたところ、そこに津波が来たんですよ。

早く逃げればいいものを・・・。

実際、津波の高さは水門の三倍以上のものでした。

「彼は逃げれば逃げられたんだ。けど、あいつは消防団だから水門閉めないといけないと思って最後までいたんだ。」と聞きました・・・。

その教え子の娘と私の娘が保育所で同級生で友達なんですよ・・・。

私はいまだにその教え子の夢をみるんです。

だから、私にとっての津波からの心の復興ははまだ終わっていません。

そういった友達や親しい人たちを亡くしました。

彼らは無念な気持ちで天国へ行ったと思うんです。

私はそういった悔しい気持ちで亡くなった人の分まで頑張って生きなきゃなと思っているんですよ。

津波が下がったあと浜辺中瓦礫だらけでした。

家の瓦礫とか漁業者の漁具や牡蠣やわかめの資材が海岸に散乱していたんです。

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とても手をつけられる状態ではありませんでした。

50人や100人の力で皆でやっても、何ヶ月もかかっても、片付けられるような瓦礫の量じゃありませんでした。

全国からたくさんのボランティアが毎日来てくれて全部片付けてくれました。

地震で石巻からの沿岸道路が崖崩れになってしまい、震災当時は陸の孤島になっていて、警察や自衛隊がくるのに5日間くらいかかりました。

被災者には病気の方や妊婦さんやがいました。

だからまず、食料、水はそういう人たちに優先して分けていましたね。

そこには透析患者の方と予定日の近い妊婦さんがいましたが、陸の孤島だし、電話も繋がらないんで、病院と連絡が取れませんでした。

福島、宮城、岩手で大きな災害でしたから警察も自衛隊もパニックになっていたと思います。

そこで隣の浜のコンビニの」駐車場に「HELP」と書いて、助けを待ちました。

するとヘリコプターが来て、透析患者の方と妊婦さんを石巻赤十字病院へ搬送してくれました。

三週間後に赤ちゃんが無事生まれたという話を聞きました。

赤ちゃんのおじいちゃんが同じ避難所に居て「生まれたよー。あの時ヘリコプターに乗せて行ってもらった娘の子どもじゃー。」と泣いて喜んでました。

ボランティアたちの温かさを感じました。物資調達や瓦礫の片付けてなどをして頂いて・・・感謝です。

日本人って本当にいいなぁっとすごいなぁと思いました。

愛知や四国、兵庫、新潟、全国各地から、沢山のボランティアの方に来て頂きました。

今は仮設住宅に入っていますが、高台移転のことなどこれからのどうなって行くかわかりません。

復興はかなり遅れています。

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(海岸まで500メートルくらいの位置、海側は何もない)

国は福島の原発事故の方にばかりに手を焼かれ、津波の被災地は瓦礫撤去後放置されています。

集められた瓦礫はまだ片付いてないんです。

そのような状態から復旧していくのは無理なんです。

だから私たちに出来ることは、毎日家族と笑いながら生活して、少しずつ前を見ていくことなのかな・・・。

正直、仮設住宅を出たらどうすればいいのかわかりません。

子どもも小さく、育てていかなくてはなりません。

仮設住宅にずっと居るわけにもいきませんし、家を建てるにも土地がありません。

でも、まあなんとかなるかなぁと思っています。命が助かっただけでも良かったです。

あんまり普段から贅沢しないこったね。

あの避難所生活を思えば・・・

私は今、仮設住宅に家族皆でいれて、毎日娘とお風呂に入って、毎日ご飯を食べて、布団に寝て・・・幸せですよ。

阿部恵一さんのお話から今後震災が起きたときの備えや対処が参考になったのではないかと思う。

あなたの大切な人達と一度災害への対策を話してみるのはいかがでしょうか。

被災地では阿部さんが述べたような状況だ。

被災者たちはそれぞれの問題を抱えて、今を生きている。

普段の生活で私たちはいかに色んなことに不満を抱いていることか・・・。

自分達の環境がいかに恵まれているかをついつい忘れてしまっている。

私たちは当たり前のようで当たり前のでないこの幸せな生活にを感謝しつつ、一日一日を大切に生きていくべきであろう。

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津波被災者が語る 被災とコレカラ” への1件のコメント

  1. ピンバック: 愛知ボランティアセンター  | jour na l ism

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