「反原発からライフスタイルのチェンジへ」

~ウラン採掘現場・精製工場の現実~

1986年にチェルノブイリ原発事故があって、日本では88年あたりがピークで反原発運動が盛んに行われていたと思うんですが、それから徐々に勢いを失って、それ以降世間には原発の安全神話がどんどん浸透していきましたが、ウランを掘っている現場では酷い状況が続いていました。

僕はアメリカのニューメキシコにあるパグワテというウランを採掘している村に行ったんですが、そこでは障害を持っている子どもの数が半端なくて、寧ろ「健常な子どもがおるんやろか?」と思うくらい酷い状態でした。その辺にいる犬や猫も片足がなかったりで・・・・。

そこはラグーナインディアンというプエブロインディアンの一部族が住んでいるところで、インディアンの居留地では地下水などの天然水を生活に利用しているのですが、その水が放射能で汚染されてしまって以来、村の人は何十年にも亘ってずっと内部被爆しているのです。

僕が行った時はウラン採掘が始まってからちょうど3世代目が産まれてくる頃でした。
放射能の影響は3世代目に一番顕著に影響が出るとも言われていて、チェルノブイリから27年経った今、3世代目が産まれてきているヨーロッパでは大変な事になっています。
(一説には放射能の遺伝子への影響は7世代続くとも言われている。)

ウラン採掘現場と原発事故では放出される放射能各種が違っていて、出てくる影響や症状は必ずしも一緒ではありません。ウランを掘っているところではラドンとか希ガスが多いと言われていて、肺がん・肺気腫になる人がすごく多いです。
特に鉱夫だった人は肺がんが多いみたいですけど、生まれてくる子どもは白血病だったり、何らかの障害を持っていたりしていますね。

僕が行ったパグワテから少し離れたところにチャーチロックという場所にウランの精錬所があって、それは所謂イエローケーキと呼ばれる濃縮ウランを作る工場です。
その濃縮工場からは放射性の廃液が荒野に垂れ流しにされていて、後からそこにダムのような堰を作って廃液を溜めていたんですね。
けど79年にその堰が決壊してしまって、廃液がリオプエルコ川に流れ込んで、その川の水を生活に使っている沢山のナバホ族などのプエブロの人達が放射能の被害に遭いました。

この事故はスリーマイル島の原発事故が起きた4ヶ月後に起きたので殆ど報道されませんでしたが、福一の事故が起きるまでは放射能事故の中ではチェルノブイリ、スリーマイルの次に最悪の事故だったんです。

因みにチャーチロックの近くの村のウラン鉱夫達は約1000人中440人の人が98年までに癌や白血病などで亡くなっているんですよ。

僕の原風景にはアメリカの採掘現場で見てきたことがあって・・・

それで、結局僕らはその人たちの上に胡坐を組んで電気を使っている訳なんですよね。

反原発活動はずっとしていましたが、福一事故が起こった後に「命に関わることであるのに自分はこの問題に命をかけていなかった。」という自分の矛盾に気付いて・・・。

ただ単に採掘で被害を受けている人達がかわいそうだから反原発とかじゃなくて、自分や自分の子ども達がこの先そういう風になり得る訳ですからね。

自分はただ罪悪感を解消するために反原発運動をしていたではないだろうか?と疑問に思って後悔しましたし、子ども達にものすごく申し訳ないと思いました。まあ僕が命かけたところで原発が無くなってたかどうかは分かんないですけど。笑

それからライフスタイルを変えていこうと思って、自分に何が出来るかと考えた結果がこの食堂を経営することだったんですよ。

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